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【虚構世界内存在の】理性・真理・虚構【思惟の道】

1 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 13:35:24 ID:gkabLtnb
ここでは、虚構世界内存在の思想を記述する。
しかし、限界に達しているため助力を望むものである。
まずは簡単な自己紹介から始める。

【立場】
●超越論
  →超越論的懐疑主義
●非超越論
  →非超越論的構成主義、非超越論的反実在論、非超越論的唯名論、非超越論的プラグマティズム
●共通
  →反超越論的実用主義、反超越論的プラグマティズム、反超越論的歴史主義、反超越論的右翼、反超越論的左翼、反超越論的新右翼、反超越論的新左翼、反超越論的民主主義、反超越論的社会主義、反超越論的資本主義、反超越論的共産主義、反超越論的自由主義

【基本的な考え方】
わたしは正当性を最も重視している。
わたしが、根源への問い/根源的問いを行う、すなわちいわゆる理性を以って人間や人間社会を評価するときには、正当性以外の指標は用いない。
ここで、わたしの言う正当性は、理論の正当性と実践の正当性に細分化することができる。
理論の正当性においては、ある信念または命題が正しいということを正当化することができるかということを、
実践の正当性においては、一方である状況において自らが持っている信念を正当化しているにもかかわらず、他方で他の状況においてそれと矛盾する言動をとっていないかということと、
一方で他者にある信念を持つ、あるいはその信念に基づいた実践を行うように要求しているにもかかわらず、他方で自らはその信念を状況によって放棄する、あるいはその信念に基づいた実践を行わないといったことがないかをそれぞれ基準として設定している。
また、実践の正当性に違反し、かつ自らの考えや主張に正当性があると考えたり、主張したりするか、他者の自己中心性ならびに/あるいは矛盾を非難する、さらにはその非難を正当化するという状態を重層的矛盾と言う。
なお、最近では理論の正当性についての基準を緩くしている。
具体的には、自らが抱いている感覚や感情、あるいは自らの帰属集団や準拠集団において共有されている感覚や感情を直ちに正当化していないかどうかとしているが、これは、誰も絶対に正しいと言える理論を打ち立てることができていないと思われるためである。

2 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 13:36:45 ID:gkabLtnb
>>1の続き
【業績】
▽著書(入門書)
『現代荒らし界の冒険者たち1 −北条クポッ!:荒らしとは何か−』
『現代荒らし界の冒険者たち2 −ゆかり:荒らしに抗して−』
『現代荒らし界の冒険者たち3 −上級厨房:騙りの限界を経験することは可能か−』
『現代荒らし界の冒険者たち4 −k3:荒らしの構造−』
『現代荒らし界の冒険者たち5 −aaa.com:どうして荒らしてはいけないのか−』
『現代荒らし界の冒険者たち6 −XG:荒らしと煽りの融合−』
『現代荒らし界の冒険者たち7 −ヨノイ:何が荒らしの行為を説明するのか−』
『現代荒らし界の冒険者たち8 −北条com.com:超越論的荒らしの徹底−』
『現代荒らし界の冒険者たち9 −奇襲荒死:荒らしの新たな可能性を求めて−』
『現代荒らし界の冒険者たち10 −darkdark:荒らしの原理−』
『現代荒らし界の冒険者たち11 −Mother Fucker:荒らしの謎について考える−』
『現代荒らし界の冒険者たち12 −keny:荒らし行為の快楽−』
『現代荒らし界の冒険者たち13 −偵察部隊:何のために荒らすのか−』
『現代荒らし界の冒険者たち14 −御堂岡:荒らし行為−』
『現代荒らし界の冒険者たち15 −ガスパール:荒らしは意味を持てるか−』
『現代荒らし界の冒険者たち16 −濡鬼.com:荒らしの脱構築−』
『現代荒らし界の冒険者たち17 −たか@工房:荒らしの不可逆性−』
『現代荒らし界の冒険者たち18 −黒幕:存在と荒らし−』
『現代荒らし界の冒険者たち19 −魅:荒らしと自由−』
『現代荒らし界の冒険者たち20 −$2:批判的荒らし主義−』
『現代荒らし界の冒険者たち21 −かーん:荒らしの時空−』
『現代荒らし界の冒険者たち22 −たん将軍:荒らしと無限後退−』
『現代荒らし界の冒険者たち23 −天使の使い:荒らしは過去の奴隷なのか−』
『現代荒らし界の冒険者たち24 −dj-tukanoma:「荒らし」なんて存在するのだろうか−』

3 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 13:39:04 ID:gkabLtnb
>>2の続き
▽著書(高級書)
『荒らし史講義』
『荒らし学史講義』
『古代形式荒らし学』
『運動としての荒らし』
『荒らしの眼差し −荒らし学的認識論のために−』
『荒らしの形而上学 −北条クポッ!とその時代−』
『荒らしの現象学 −ゆかりを中心にして−』
『理性・真理・虚構 −虚構世界内存在の思惟の道−』

▽論文
「ゆかり「新年あけまして」を巡って」,『荒らし界』,2003年,第28号,12〜70頁

▽コラム
荒らしバカ一代(『ARS』連載)

▽作詞
ドットコム三兄弟(歌:aaa.com、bbb.com、com.com)

▽作曲
ドットコム三兄弟(歌:aaa.com、bbb.com、com.com)

4 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 13:45:58 ID:gkabLtnb
次に立場の変遷について記述する。

●第一段階:論理的決定論/宿命論
中学3年生のときに思いついた考え方であり、当時は運命論と呼んでいた。

●第二段階:「根源への問い/根源的問い」の原型
高校生に入って急速に変わり始める。
そして、高校2年生のとき、アホでマヌケな日本のマスゴミやろうとその取り巻きによって「17歳」という年齢の人びとが攻撃対象となったことがあった。
そのとき同じ(満)17歳だったわたしは、今ほど言語化することができなかったものの、そいつらには矛盾と欺瞞があるということを感じ取っていた。
それで、通っていた高校で毎年3回行われる小論文試験において、高校2年生のときにちょうど少年法について出題されたので、悪というものについての見解を述べたのである。
詳しくは忘れたが、ビデオ・ゲーム(video game)と犯罪との因果関係がないことと、悪の評価基準には「度合い」と「性質の悪さ」の2つがあり、後者のほうが重要であるということを述べたような気がする。
その「性質の悪さ」を測定する指標のうち、もっとも重要なものが「批判の回避可能性の程度」で、
これは、多数者であれば、少数者がそれを行った場合に攻撃対象となる行為をしても、批判を免れることが多いというもので、まさに一般人が実践の正当性を欠如していることを言い当てたものだった(もちろん、今よりもずっと拙い議論だったが)。
また、このときは(今も田舎という点では変わらないが)、住んでいたところが田舎だったことと、インターネット(internet)の世界で遊んだことがなかったことから、
「2次元的」虚構作品と親和性の高いこと、およびそうした特性を有する者に対する社会的排除や社会的抑圧を感じたことが1度もなかった(そもそも、オタクやコミック・マーケットという語を知らなかった)。

●第三段階:相対主義と論理的非決定論/非宿命論
これは、大学2年の終わりか、大学3年の始まりぐらいのときに至った考えである。
後者の名称については後になってから知った。

5 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 13:47:53 ID:gkabLtnb
>>4の続き

●第四段階:懐疑主義
大学4年の終わり(2005年1月末)か、大学5年の始まり(2005年4月)ぐらいに開始して、2006年8月に完成した理論(最初は、一般人は絶対化できないことをも安易に絶対化しているのではないかという疑念から出発した)。
ピュロンのような、たとえば目の前に湖があるように見えるが、これは思い込みであるかもしれないとして、そのまま湖に落ちるといった、実践上の懐疑ではなく、
またヒュームのような、どうして正当化が起こるのか、あるいはどのようにして正当化するに至るのかといった、心理学や脳科学の分野で行われるような研究でもなく、
本当に正しいと言えるかという、正しさを追究するための懐疑なので、デカルトの懐疑に近い(でも、たぶんデカルトのものとも少し違う)。
また、そうした理論における正当性の追究とともに、実践の正当性を監査するという、「根源への問い/根源的問い」を開発することになる。
なお、ヒュームは懐疑主義を4つに類型化したらしいが、あとの1つは知らない(思いつくのは「一般的な懐疑」ぐらい)。

●第五段階:構成主義的反実在論/構成主義的唯名論
第三段階に至るまでに思いついた(2005年3月27日)が、忘却してしまっていたのでここ(2006年9月17日)に位置することになった。
社会言語学やグッドマン(Nelson Goodman)のような考え方だと思う。たぶんローティ(Richard Rorty)の非超越論的プラグマティズムもこれと関連性が強い。
未完成である。

6 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 13:51:29 ID:gkabLtnb
次に、>>5において記述した第四段階と第五段階について詳述するが、その前に超越論と非超越論という語についての思い込みを退けるため、両者の相違について簡単に記述する。

超越論と非超越論の相違は、何が正当性を担保すると考えるかによって決定づけられる。
超越論では、人間やその社会は人間の意識や言語と関係なく存在することができる(あるいは存在している)と考えるため、あることについての正当性を担保するのは人間社会を包括する何かであり、たとえば一神教ならば神が、一般的には世界がそれに当たる。
超越論の代表格としては、一般的な感覚でもある素朴実在論を挙げることができるが、おそらく現存する(とされている)ほとんどの立場が超越論に属していると思われる。
これに対して非超越論では、すべては人間が人間の言語によって形づくっている、言い換えれば人間社会がすべてであると考えるため、正当性を担保するのは人間社会であるとされる。
この領域に属するものの代表格は、理論上は法や道徳であるが、どういうわけか、それらについての正しさは多くの超越論者によっても非超越論的な仕方で主張されている(超越論者が非超越論を用いてなお正当性を保持できると考えているのか……)。

7 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 14:03:05 ID:gkabLtnb
●超越論(0→1)
根源への問い(あるいは根源的問い)とは、「なぜ〜という信念または命題が正しい、あるいは反対に誤っているということを正当化することができるのか」、
あるいは「〜という信念または命題が正しい、あるいは反対に誤っているということを正当化することができるか」という形式の超越論的問いを、それ以上問うことができない地点まで繰り返すことをいう。

根源への問いの基本的な過程は次のとおりである。
(1) すでにある信念や命題に対して根源への問いを行う。
  →(2a)あるいは(2b)へ
(2a) 対象となる信念や命題が(1)によって解体されるならば、それらは正当化することができない。
  →(3)へ
(2b) 対象となる信念や命題が(1)によって解体されないならば、それらは正当化することができる。
  →(5)へ
(3) (2a)によって、絶対主義下にある理論(=「〜という信念あるいは命題が正しいということを正当化することはできない」)が打ち立てられる。(理論の正当性の確認)
  →(4)へ
(4) (3)によって、実践においては相対主義を採用せざるを得ないことが分かる(その信念を保持するかどうかは各人のかってということである)。
  →(5)へ
(5) (1)において根源への問いの対象となった信念や命題を主張する者が、それらと矛盾した言動をとっていないかを検討する。(実践の正当性の確認)
  →(終了)

また、対象となる信念や命題を唱える者が、(5)において矛盾しており、かつ日常的に他者の自己中心性を批判している場合、(5)が終了した際に、その者の自己中心性が立ち現れ(自己論駁的矛盾)、
したがってその者は実践の正当性を二重に欠いていることになる。(重層的矛盾)

8 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 14:07:49 ID:gkabLtnb
>>7の続き

わたしが、まず問いを立てることにしようと考えた主要な動機として、
一般人による「独断の多用」〔自らが抱いている感覚や感情、あるいは自らの帰属集団において共有されている感覚や感情を直ちに正当化する=不当な正当化をすることの多用〕と「自然主義的誤謬」に対する違和感がある。
前者は、たとえば、「〜はおもしろくない」、「〜は気持ち悪い」といったような信念を論証なしに正当化する行為である。
他方、後者は、「犯罪者を個人的な感覚や感情から、集団になって攻撃する」という行為について正当性があると主張することなどに見受けられる。
たとえば、「自分が気持ち悪いと感じる何か」や「……という行為をした者に対して攻撃すること」が人間であれば回避することのできない(と科学的にされている)物理的/生理的なこと〔自然なこと〕であったとしても、
そのことと、それを正当化するという心理的な行為とは直結していない〔懸隔がある〕ため、直ちに正当化することはできない。

9 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 14:11:26 ID:gkabLtnb
>>8の続き

両者に懸隔があるという論拠は次のとおりである。
科学によって人間の脳について完全に説明することができるようになり、たとえば特定の条件を満たした者を「攻撃したくなる」ということが判明したとしても、
それによって直ちに「攻撃してもよい」という信念、ならびに/あるいは「攻撃しなければならない」という信念を持つことが正しいということを正当化することができるようにはならない。
というのは、科学によって解明されること、あるいは科学が説明しようとしていることは「仕組み」であるからにほかならない。
言い換えれば、(この例において)科学は、せいぜい人がどのようにして「攻撃してもよい」という信念、ならびに/あるいは「攻撃しなければならない」という信念を持つようになるかというところまでしか回答を与えられず、
したがってそうした信念を持つことが本当に正しいかどうかは分からないのである。
もっと言うならば、仕組みの解明は正当性(ここでは、攻撃を行う正当性、およびその攻撃を行ってもよいという信念を持つことの正当性)の担保になり得ない。
人間社会がすべてであると考える非超越論では、人間社会が正当性を担保するために特定の攻撃を正当化し得るとしても、
人間社会よりも大きな何かが正当性を担保すると考える超越論では、人がその攻撃を行う仕組みが判明することと本当にその攻撃を行ってもよいかということとは乖離しているのである。
また、実際にこの考えを実践することができている者の存在も物理的/生理的な要因と心理的な根拠が乖離していることを示唆している。
たとえばわたしがそうである。
わたしは、インターネット(internet)上でよく見かけるような、ある一般的な意味での趣味を持っている者を、ただそれだけで誤っているとして排除するようなことはしない。理解できない趣味があるにしても、それを理解できないままにしておくのである。

10 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 14:16:01 ID:gkabLtnb
>>9の続き

人間が起こす対立には、同次元のそれが多いように思われる。
たとえば、「芸術はすばらしい」という主張と「芸術はくだらない」という主張の対立においては、両者ともに単に感覚ならびに/あるいは感情を報告しているに過ぎない。
そして、こうした対立においては、よく証明や論証なしの正当化が行われ(つまり感覚や感情が直ちに正当化されているということである)、またほとんどの場合において多数者の主張が機能するようになる(しかし、機能するほうの主張が正しいと言えるとは限らない)。
これと似ているが異なる対立もある。
たとえば、宗教と科学という対立においては、
超越論であり、かつその対立に登場するもの以外の立場(すなわち宗教と科学を除く何らかの立場)を取り得る可能性があるにもかかわらず、
「相手のこういう点が誤っていることから、相手の考え方は隘路となっているので、自らが正しい」という論じ方がよくなされるが、こうした仕方は誤りである。
あるいはまた、右翼と左翼の場合も、非超越論的議論でない限り、同じである。
一般に超越論によって維持されていると考えられている学問である数学で考えてみればよい。
「1+1の答えは2と3のどちらか」というところから出発し、2の相手である3を採用した場合にどのような不具合が起こるかなどといったことは検討されないのである。
それは、たとえ1+1が3でないことを証明することができたとしても、それだけで1+1が2であることの証拠にはならないからにほかならない。

11 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 14:19:14 ID:gkabLtnb
>>10の続き

こうしたことから根源への問いの重要性が理解される。
根源への問いは対立する両者に等しく自らを絶対評価することを要求するので、根源への問いによって消滅させられずに残ったほうが絶対に正しいということになる〔正当化することができる〕のである。
むろん、両者ともに敗れ去ることも十分に考えられるが、その場合、「〜という信念または命題が正しいということを正当化することはできない」という結論
(たとえば、右翼と左翼の対立について言えば、「右翼的考えは正しいという信念が正しいということを正当化することはできない」、ならびに「左翼的考えは正しいという信念が正しいということを正当化することはできない」となる)が得られることになり、
そうであればいずれの信念を持つか、あるいはどちらの信念も放棄するか(右翼と左翼以外の立場もあるので、判断停止には陥らない)ということについては、各人の感覚や感情に依拠するほかなくなるのである。
すなわち、理論が絶対主義であるがゆえに、実践においては相対主義にならざるを得ない、もっと言うならば原理的には決着がつかないのである(理論の段階で相対主義を採用している一般相対主義と混同してはならない)。

なお、根源への問いの結果、対立する2つの立場のいずれもが正当化されないという結論が得られた場合、判断停止に陥るのではないか思われるかもしれないが、それはない。
というのは、たとえ対立する2つの立場以外の立場がない場合であったとしても、
対立する2つの立場のいずれもが正当化されないということが意味するのは、答えがない(真偽が判明しないということではない)ということであって、信念を捨て去らなければならないということではないためである。
たとえば、「太陽は明日も昇る」という信念が正しいということを正当化することができないとしても、誤っているということを正当化することができない限りにおいて、「太陽は明日も昇る」という信念を保持することは矛盾ではない(反対に捨て去ってもよい)。
究極的に言って、あらゆる信念や命題が正しいということ、ならびに誤っているということを正当化することができないということが分かれば、どのような信念を持つことも(それを正当化しない限りにおいて)各人に委ねられるのである。

12 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 14:21:23 ID:gkabLtnb
>>11の続き

例証:理論の正当性

「人を殺してはならない」という主張は、実用主義に基づけばよく分かる。
実用主義は多数者に有利な立場なので当然である。ところが、この実用主義に基づかなければならない理由が分からないので、「実用主義は正しいという信念が正しいということを正当化することができるか」とまず問うのである。
それで、「実用主義に基づかなければ人間社会を維持することができないからだ」などと返答してくれば、「人間社会を維持しなければならないという信念が正しいということを正当化することができるか」と問い、
それに対してさらに「それでは人類が滅びてしまう」と反論してきた場合には、「人類が存在し続けなければならないという信念が正しいということを正当化することができるか」と問うのである。
法律や道徳についてはだいたいこれで解体することができる(しかし、少なくとも現代の法律は非超越論に依拠していると思うが、超越論的に捉える者は多い。また、超越論者が法律を肯定するのは矛盾している)。

13 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 14:24:27 ID:gkabLtnb
>>12の続き

例証:実践の正当性

すべてかどうかは知らないが、最終的には、あることについてはただ1つの結論が事実とされるようになる。
しかしながら、超越論的には、それ以外の結論が事実であり得る。たとえば、裁判長がある者を犯罪者と判定したからと言って、超越論的には、裁判長が全知全能でない限り、その者が本当に違法行為をしたとは限らない。
言い換えれば、全知全能でない裁判長がある者を犯罪者と判定しただけで、直ちにその者が犯罪者であるということを正当化することができるのは、非超越論においてでしかあり得ない。
特に言語に基づく非超越論の場合には、人間社会がすべてであるから、超越論的にはその者が犯罪者でない可能性があると言える場合でも、彼は犯罪者であるということを正当化することができる。
それは、人間社会がすべてであると考える言語中心的非超越論においては、現実は人間社会(分けても多数者)によってつくられるとされるためである。
ところが、先ほども述べたように、超越論では人間社会がすべてではないと考える以上、裁判長が下した判決であろうと、多数者が支持した考えであろうと、ただそのことによって正当化することはできない。
そして、大部分の一般人はほとんどの場合において超越論に依拠しているのであるから、裁判において犯罪者と規定された者を直ちに犯罪者であると捉えるのは矛盾しているということになる。

14 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 14:27:04 ID:gkabLtnb
>>13の続き

補足

他者に対して「法や道徳に違反している」という批判をすることは、一般人が法や道徳を守れと騒ぎ立てていることを受けて、おまえら自身が守っていないじゃないかと言っているのであって、これが実践の正当性についての批判になっている。
だから、わたしが法や道徳を重んじているがゆえにそういう批判を行っているということでは決してない。
この点について勘違いをされる可能性があると思ったのは、以前『たかじんのそこまで言って委員会』で共産党の元幹部らしい筆坂という人が初めて出た回において、たしか民主党の人が、これに酷似した勘違いをしていたためである。
その人は、「(何かの委員会で)共産党の人が自民党の政策に対して誤った資本主義だと批判していた」という趣旨のことを言っていた。
前後の文脈とその人の言い方から、その人は、共産党であれば共産主義に基づく批判をすべきだと言っていたのだと思う。
ところが、わたしからすれば、その共産党員が行ったという批判の仕方は、まさに相手に実践の正当性が欠如しているということを示すものにほかならない。
つまり、「あんたの立場では今のようなことをやっていると、あるいはこういうことをやらなければ矛盾することになるだろうが?」と言っているだけなのである。
これと、共産党の掲げる(べき)理論とは当然別のものになるが、この状況は矛盾ではなく、単に批判方法には(理論についてのものと実践についてのものの)2種類あるというだけのことである。
わたしも2ちゃんねるの哲学板で指摘されてから修正したのであるが、理論と実践を分けて考えないと、両者がごっちゃになってしまいおかしなことになる。
実感としても、その指摘=「どいつもこいつも理論と実践を混同している」というような指摘を受けてから、うまく言語化できないという悩みの1つが解消された。
なお、「自己中心性」という論点についてもこれに含まれる(一般人の自己中心性それ自体を非難しているのではなく、一般人が他者に対して自己中心性を非難しておきながら自らの自己中心性については無視していることに対する非難となっているということである)。

15 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 14:29:41 ID:gkabLtnb
次に、超越論にまつわる2つの難問を記述する。

■第1の難問
他の何にも依拠しない、したがって無根拠の状態では、思考することができない。
このことは、左記の文章に含まれる語句や左記の文章全体が何を意味するか、さらには意味とは何か、「〜とは何か」とは何かといったことが何も分からない、言い換えれば言語を喪失した状態を想定すればよく分かる。
(2006年9月27日−再び非超越論に至った日)

■第2の難問
超越論において正当性を担保するのは人間社会を包括する何かである。そして、その一般的な形式が世界である。
つまり、世界が何かを根拠づけていると考えるのである。
しかし、そうであるとすれば、世界が人間社会を包括したように、他の何かがその世界を包括しなければ、人間社会を直接的に包括する世界の根拠づけがなくなることになる。
そうすると次に、人間社会を直接的に包括する世界を包括する世界を包括する世界が要請される。
こうしてわたしの言う超越論は無限後退という隘路に入っていく。
あるいは、人間社会を包括する何かを神=唯一絶対の存在とする場合には何らの問題も生じないのだろうか?
(2006年12月15日)

16 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 14:32:21 ID:gkabLtnb
●非超越論
デカルト(Rene Descartes)は「絶対確実なものを知るためにいったんすべてを疑ってみる」という方法的懐疑によって、「疑っていることを疑うことはできない」というところに辿り着いたということである。
しかし、それ以前に、「絶対確実なものを探究するためにいったんすべてを疑う」ということは、少なくとも形式的には絶対確実なものがあるかどうかは分からないというところから出発するはずであるが、
そうであれば「疑う」という語がいったい何であるかということが最初の時点ではまだ確実でないということになる。
そうであるにもかかわらず、デカルトは、「疑う」という語、ひいては「絶対確実なものを知るためにいったんすべてを疑ってみる」といったような文が何であるかを独断して議論を進めている。
なぜ、そのようなこと、すなわち自明でない何かを前提にして議論を展開することは正しいという信念が正しいということを正当化することができるのであろうかということである。
結局、無前提では、出発することも、終点に行き着くこともない。
つまり、言語の制約を受けているんだったら、言語と切り離して何かが存在するとか、成立するとかいったことはあり得ない。
すべては人間が人間の言語によって規定・設定したり、構築・制作したりしている(しかも、そこでは、よく想定される人間社会の内側と外側などというものは単なる幻想に過ぎず、
ただ人間社会=人間の言語しかない)んだから、正当化は人間社会においてなされるものであるということなる。
こうして、すべての超越論は失敗し、非超越論が正しいということになる。
したがって、たとえば法や道徳について言えば、それらは一般に超越論的に正当化されているが、社会が正しいと設定しているから正当化されるという非超越論的正当化へと変更を余儀なくされるし、
数学にしても、実用性/有用性があるという妄想が共有されているから正当化されるという認識を持たざるを得ないのである。

17 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 14:34:01 ID:gkabLtnb
>>16の続き

なお、なぜ超越論に不可能性があるからと言って直ちに非超越論が正しいということになるかということであるが、
これについては、「超越論(0→1)」で用いた、「1+1の答えは2と3のどちらか」という問いを「1+1の答えは2か2でないか」という問いへと変形させればよく分かるであろう。
ただし、「1+1の答えは2と思うか2でないと思うか」という問いの場合には様子が違ってくる。もっと言うならば、あることについてA対非Aという信念対立があるときであっても、それら以外の信念もあり得る場合がある。
たとえば、「焼きそばが好きか好きでないか」といったような、個人的な感覚や感情によって評価する場合である。この場合、「好き」という立場と「好きでない」という立場以外に、「好きな部分もあるが嫌いな部分もある」という立場もあり得る。
また、より進んで「焼きそばと焼きうどんのどちらがより好きか」という問いに対する答えについても、「決めがたい」といった反応があり得るため、それについての信念は2つ以上あり得る。
しかし、いずれにせよ、ここでは感覚や感情ではなく、「本当に正しいと言えるかどうか」を問題としているため、A対非Aという信念対立における信念にはAか非Aのいずれかしかない。

  補足

非超越論では「物自体」すらないと考える。つまり、言語によって認識されたものがすべてである(言語で認識する→できごとなどが存在する)。たとえば、虚構作品について言えば、記述されていない部分の存在を想定しないということである。

18 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 14:38:30 ID:gkabLtnb
次に、非超越論にまつわる2つの難問を記述する。

■第1の難問
「圧倒的多数者(たとえば人類の99%)と少数者(たとえば人類の1%)が同一あるいは同質の矛盾を犯した場合において、
多数者が少数者を批判するにもかかわらず、自らのそうした矛盾については修正しないときであっても多数者が正しいということになるか」、言い換えれば「少数者の矛盾はすべて誤っていて、多数者の矛盾はすべて正しいと言えるか」ということである。
これが正しい場合、インターネット(internet)上か否かを問わず頻繁に行われていると思われる、他者への攻撃(直接的に身体を攻撃する種類の攻撃ではなく、誹謗や中傷、信頼関係のない者に対するからかいなどの間接的に身体を攻撃する種類の攻撃を指している)は道徳、
そして場合によっては法と矛盾するが、多数者のそうした行為については許容されるのであろうか(いや実際に許容されているが。たとえば、犯罪者、あるいはそれ以前の容疑者に対する攻撃など)。
さらに、上記の文における「同質」を「同一」と置き換えることのできる事例もあり、こちらを乗り越えることはさらに困難である(次の書き込みを参照のこと)。
(2006年11月1日)

19 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2006/12/23(土) 14:38:45 ID:+JHMFQKm
宗教板かオカルト板…いや、カルト板いってこい。

20 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 14:40:37 ID:gkabLtnb
>>18の続き

>>18の最後の部分については、
「ワレザー」と呼ばれていた者たちの違法行為の現場(著作権は親告罪なのでこの時点では犯罪ではない)を荒らしていたSDK(チームサムデコを潰すために立ち上げられたチームサムデコキラーの略称)のガキという者を晒し上げるウェブサイトの記録から分かる。

発言1
「ガキ君!! 掲示板荒らしは犯罪です!! しかもメール読ませてもらったらアカウントハクもしてますね!」
「そのハクしたアカウントを御堂岡にメールで教えたりしてますね(´ヘ`;) これは立派な犯罪です!」

発言2
「SDKメンバー『ガキ』のログ抜いてソシャルしたよヽ(´ー`)ノ 愛人のアカだったので時間かかたけど(´ヘ`;)」
「サーバーハクしてメールもいっぱい読ませてもらたよ(激爆)」

この2つの発言から分かるように、「ハク」なる行為を犯罪であると認識し、それを行った者を非難し、挙句の果てにその非難には正当性があるということを論証もなしに暗に主張する者が、自ら行った「ハク」については無視しているぞ。

そもそも、「その当時、掲示板荒らしが犯罪であったのか」という疑問が残る。
これに対して、犯罪であるかどうかはここでは重要でないとの反論を行うならば、それは直ちに反射される。
すなわち、著作権無視ならびに(ガキという者の)肖像権無視は権利保有者が申告しなければ犯罪でないが、
「掲示板荒らしは社会的にしてはならないことである」と主張するならば、
著作権無視ならびに肖像権無視もまた社会的にしてはならないと設定されているのであるから、
掲示板荒らしに対してそうした非難を行うえば矛盾するということである。

21 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 14:45:24 ID:gkabLtnb
>>20の続き

■第2の難問
わたしが言うところの超越論では、人間社会よりも大きな何かが正当性を担保する。
他方、これもまたわたしが言うところの非超越論では、人間社会が正当性を担保する。
そこで、便宜的に人間社会よりも大きな何かを世界という語によって代表させると、超越論では「世界⊃人間社会」であって、「世界⊇人間社会」ではないのであるから、人間社会は世界の構成要素の1つに過ぎないということになる。
ということは、超越論以外を表す語である非超越論において、正当性を担保するものを人間社会に限定するのは誤っているのである。
つまり、人間社会以外の1つあるいは2つ以上の、世界の構成要素もまた正当性を担保するものになり得る(これに対して、非超越論では、人間が人間の言語を使用してすべてを形づくっていくと考えるため、
たとえば「世界は人間社会よりも大きい何かである」という考えが一般的である場合、人間がそのように言語によって規定し、維持しているのであると理解することができる)。
これを受けて、非超越論を反超越論という語に改めたとしても、世界と対立する世界構成要素は人間社会以外にも存在する可能性があるため、適切であるとは言えない。
それ以前に、人間社会は世界の構成要素であるから、世界と対立する概念ではないと言える可能性も十分にある。

22 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 14:48:37 ID:gkabLtnb
>>21の続き

たしかに、超越論と非超越論という語は学術における定義と違い、虚構世界内存在が自らの考えを説明しやすくするために便宜的に用いている語であるが、それだけでこの問題を回避することはできない。
というのは、感覚や感情以外の信念や命題の正当化について考える際には、Aか非A以外の立場はあり得ず、
かつわたしが問いたいことは、「超越論と非超越論のいずれを正当化することができると思うか」という感覚ではなく、「超越論と非超越論のいずれを実際に正当化することができるか」ということであり、
したがって上で見たように超越論=Aと非超越論=非Aのほかにも立場がある場合、超越論の失敗が非超越論の成功の唯一の条件ではなくなるためである。
つまり、すでに超越論の不可能性は確定しているため、
後は非超越論という語の規定を超越論以外の立場のすべてを包含するように変更するか、非超越論という語の規定を現行のままにしておき、その代わりに現行の意味での非超越論以外の立場(これには超越論を含めない。
その理由はすでに述べたとおり、超越論の不可能性は確定しているためである)の不可能性を論証しない限り、現行の意味での非超越論を正当化することはできないということである。
あるいは、事実認識と価値判断のいずれかを欠いたままで成立するものごとはないという信念が正しいならば、「〜であると思う」対「〜でないと思う」という信念対立や「〜が好き」対「〜が好きでない」という信念対立以外の場合、
つまり感覚や感情以外の信念対立であっても、ある事態についてAか非Aのほかに立場が存在する可能性がある。
ここでは、超越論対非超越論という、感覚や感情の対立ではないと思われていた信念対立においても、感覚や感情が入り込む余地があるかもしれないということである。
その場合、非超越論が超越論以外のすべての立場の総称であるとしても、
超越論対非超越論という信念対立において完全には超越論とも非超越論とも言えない他の何らかの立場が存在し得るということになるため、超越論の不可能性の論証に成功しただけでは、非超越論を正当化するには至らない。
(2006年11月26日)

23 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 14:55:40 ID:gkabLtnb
本日はここまでで終了する。

以下、返答である。

>>19
科学についてよく、あるいはほとんど知らないにもかかわらず、「科学的」という語で何かを非難するのが好きな者であるか?
一方で普段は他者を論理的でないと非難し、他方で都合が悪くなれば「論理だけが正しいわけじゃないんだよ」と言って逃げる者であるか?
シニシズムに陥っている者であるか?

24 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/23(土) 15:10:34 ID:gkabLtnb
忘却していたことがある。

●虚構世界 本拠地
http://www11.plala.or.jp/schicksal/
●虚構世界 深部
http://pub.ne.jp/lewd_mistress/
●虚構世界 楽園篇
http://putnam.exblog.jp/
●持続可能な淫乱投票システム
http://cgi43.plala.or.jp/schicksa/lvs/voting.cgi

25 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2006/12/30(土) 15:15:37 ID:928v7MKN


26 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/12/31(日) 00:20:53 ID:uTlvKHZ0
革命まで残り1日

27 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 04:19:40 ID:HcH6M9EK
相互連結
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/sociology/1167578644/l50

28 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/02(火) 10:44:12 ID:IF3u1eJ7
追加連結
http://society4.2ch.net/test/read.cgi/shugi/1167688715/l50

29 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/03(水) 05:46:36 ID:Tca5ni2o
謹んでおage申し上げます。

30 :虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/04(木) 16:54:32 ID:o4mE5wSB
スペシャル・アタック(special attack)

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